太平洋の紛争地域の女性団体の活動 [2006年APMFフィジー大会]

 [AA研究2007年第1号に記載] 太平洋の紛争地域の女性団体の活動 :「紛争地帯における平和促進における太平洋地域の女性たちの公式・非公式なメディエーションの経験(Formal/non-formal mediation experience of Pacific women promoting peace in conflict zones)」 

     フェムリンク・パシフイック(femLINKPACIFIC)について

報告者のロールズ氏が代表(Director)を努めるフェムリンク・パシフイックはフィジーの首都スバに本拠地を置き、メディア(ビデオ製作やインターネットによる情報提供)を手段としてフィジーやその他太平洋諸国の女性たちの相互連帯を助け、コミュニティ主導型の活動を支援するネットワーク型NGOである。現場の女性たちの問題を共有し、一緒に考えることで、女性たちが社会、政治、経済の問題にも目を向けるようになり、その意識の高まりが、争いの解決、和解、平和に繋がるとしている。『甘い話ではなくて(Not Just Sweet Talk)』と題した「女性の一票を無駄にしない方法」に関する啓発ビデオ、さらに「貧困、飢餓、住居、健康」、「教育」、「失業」、「若い女性の持つ問題」、「女性への暴力/性暴力」、「人々のための政策」、「女性の権利」、「良い指導者とは」など、さまざまなテーマの女性向けの啓発ビデオを作製して女性団体や公共組織、政党などに配布している。対象を女性だけに限定せず、広く政策に関わる人々にも知らせていき、ともに学ぶ、というスタンスで活動している。 → フィジー諸島共和国のケース 

      フィジー諸島共和国のケース まず、報告者自身がかかわった2000年5月のフィジーでの軍事クーデターの際に、女性団体が行なったメディエーションについて紹介しておこう。(注1) クーデターにおけるメディエーション活動の前提として、氏は、「1960年後半から1970年初めにかけてYWCAが主導的な役割を果たした反核運動」や「南太平洋大学でのキリスト者学生運動」をきっかけとして育ってきた平和運動の女性活動家たちの誕生を挙げる。その後、1987年のクーデターの時期も含めて、「法律に則った民主主義と正しいガバナンス」、「政治犯や人質の釈放、議会による民主政治を求」を求める女性や市民グループの活動が基盤になったというのである。いわゆる先住民フィジー系と植民地時代以後のインド系との対立については、「フィジーでも民族の違いは避けられない問題で、女性達のネットワークでも壁となることがあった」とする一方で、「平和を支持する女性たちは退くことはなく、平和と平等を目指しフィジーの将来を語る声となり活動を続けた。」として、メディアと公共圏の役割に注目し、「伝統的には女性は家庭以外の問題に口を出すものではないとされているが、ニュースやメディアを通して平和や正義について語り意見を述べることは可能だった」という。 2000年のクーデターについては、「女性たちの活動があったゆえ人々は冷静を保ち希望を持つことができた」として、女性たちの活動経過について、次のようにまとめている。

(ⅰ)5月20日クーデター勃発の翌日、女性の組織や会を取りまとめる全国女性協議会(National Council of Women, Fiji)は、いち早く合法的な政府を転覆するのは法に背く行為であるとクーデター非難の声明を出し、女性たちのネットワークを通して平和への祈りに参加するよう呼びかけた。

(ⅱ)521日から724日まで女性たちは各地からやってきて民族や宗教の違いを超えて一体となって毎日祈りを行った。「青いリボンの平和への祈り(The Blue Ribbon Peace Vigil)」と名付けられ、カソリックの(Catholic Women’s League)の「白衣の母たち(Mothers in White)」が中心となり国会議事堂の周辺に集まり、首相や閣僚など、そこに拘禁されている人たちのために祈った。このような行為は人質となった人々の家族を励ますことにもなった。

(ⅲ)先住民女性の代表が、しきたりに則り、当時大統領夫人で自身も最上位のチーフであった故ロ・アディ・ララ・マラ夫人(Ro Adi Lady Lala Mara)のお墨付きを得て、女性たちのメッセージを公式の場で首長大会義(The Great Council of Chiefs)に伝えた。実は夫人の子息も人質となっていた。メッセージは、民族を超えて女性たちが集まり拘禁されている人々の解放と、暴力ではなく平和的な解決を求めていることを伝えるもので、特に先住民女性の声明は伝統を重んじるチーフ達の耳に深く響いたようだ。

(ⅳ)一方、「平和への祈り」の代表は軍事暫定政権を樹立したフィジー共和国軍(the Republic of Fiji Military Forces)の司令官や軍の高官達との面会に成功した。代表は、フィジーには民主的な議会政治が必要で、軍は1997年発布の憲法を国の最高法規として守って欲しい、人権を尊重して欲しいと書いた「女性たちの手紙(The Women‘s Letter)」を差し出した。共和国軍は好意的に丁重に手紙を受け取ってくれた。その時の経験から女性たちは、今後の折衝に臨むにあたり軍独特の言葉使いや流儀を知ることが大切だと学んだ。

(ⅴ)とりあえずクーデターが収まり全国選挙が行なわれた。 以上のような女性団体の活動経緯と、クーデターから総選挙にいたる過程との関連については、さらにつっこんだ研究が必要であろうが、当事者の語りを含む貴重な証言と言えよう。 氏は、フィジーの現状について、クーデターは収まったが、「紛争が解決したわけではない」とし、「議会民主制を取り戻したフィジーが今取り組まなくてはいけないのは、国全体で和解調停をどう進めるかということだ」とする。「度重なる内乱の傷にバンドエイドを貼るだけのような安易な当座しのぎではすまない」として、「キリスト教以外の宗教を頑なに軽侮し、特にヒンドゥ教寺院に対する冒涜を続ける一部教会のキリスト教原理主義の高まりは、今後もさらなる問題となるだろう」と指摘し、次のように問いかける。「どうしたら人々が法律を重んじるようにできるか? 先住民社会に根深く残る問題、汚職、フィジーの歴史に潜在する諸問題にどう対応すればよいのだろうか?」これに対しては、「問題解決には、女性がさらに学び力をつけ、意志決定の場に参加できるようになることが不可欠」とする。辺女性を啓発・教育することと、その底辺女性の声からなるメディアすなわち公共圏を下から作っていくことを同時にめざかに見える、氏らによるフェムリンクの結成は、このクーデターの直後である。

(注1)フィジーのクーデターとその背景について:フィジー諸島は、1874年にイギリスの植民地となったが、1970年にイギリス連邦内の立憲君主国として独立した。植民地時代の政策でサトウキビ・プランテーションに季節労働者としてインド人が導入された。政策の廃止後フィジーに定住したインド人は土地を持てなかったので町で商業や専門職に従事し貨幣経済の領域を支配することになった。それらインド系住民と、村落に居住し自給自足的生活を営む先住フィジー人との間に経済格差が生まれた。また、土地を所有する先住フィジー人と土地を借りて利用するインド系住民の間での土地を巡る対立や、貨幣経済の浸透にともなって雇用をめぐる対立も深まった。1987年、多数派のインド系島民を基盤とする政権(労働党・国民連邦)が独立以来続いたフィジー系の政権を覆したが、同年5月と9月にフィジー系軍部によるクーデターが勃発。同年10月に共和国を宣言し、フィジー系住民優位の政策が展開されていくが、内外からの批判を受け、1997年に憲法改正、1999年の総選挙で再度労働党が勝利し、独立以来初のインド系首相が就任した。しかし20005月フィジー系ビジネスマンに率いられた武装集団により再度クーデターが勃発。首相らを人質に取り国会議事堂を占拠する。首相は解任され、大統領は辞任し、暫定政権が発足した。新憲法の制定、総選挙の実施、クーデター側の罪を問わないことで合意し、武装解除、人質解放、国会議事堂明渡しをもって収束した。 
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