ブーゲンビルのケース [2006年APMFフィジー大会]

[AA研究2007年第1号に記載] ブーゲンビル独立を求めるBRA(ブーゲンビル革命軍)と独立を認めないパプアニューギニア政府のPNGDF(パプア・ニュー・ギニア防衛軍)との間で続いたブーゲンビル紛争は、1988年に始まり、ようやく1998年に和平協定が結ばれるまで10年間続いた(1)。 紛争末期になって女性たちがダイナミックな活動を展開し、それが和平協定の実現につながった。氏の報告から、その経緯を紹介しよう。

   (ⅰ) 19968月、BICWF(Bougainville Inter-Church Women’s Forum :ブーゲンビル・キリスト教女性フォーラム)が呼びかけて、「本当の平和と和解を求めて」と題する女性の平和フォーラムを開催した。「山を越え、川を渡り、石ころだらけの道を歩いて、ブーゲンビル中から700人以上の女性達が新しいブーゲンビルのために何ができるだろうかと、歩いてやってきた。」BICWFは、修道女ロレーヌ・ガラス(Sister Lorraine Garasu)が中心となって、ユナイテッド教会(イギリスのプロテスタント諸派が合同してできた宗派で、ブーゲンビル人口の15%を占めるとも言われている。Reformed OnlineのデータベースにおけるUnited Church of Solomon Islandの項目参照。http://www.reformiert-online.net/adressen/detail.php?id=13268&lg=eng2006921日アクセス)、カトリックといった古くからのキリスト教会に加えて、セブンスデイ・アドベンチスト、ペンテコステなどの比較的新しい教会も加えて、宗派を超えたキリスト教会関係の女性たちで結成された組織である。 

(ⅱ)フォーラムでは、村落レベルから国レベルまで、あらゆる意思決定の場に女性が参加して平和を訴え、武装闘争で膠着した政治を変えていくという方針が決められた。フォーラム終了後、それぞれの地域の女性たちはさっそく武装集団に働きかけるべく動き始めた。「母達が息子達を説得しようとジャングルに入っていく。停戦にむけての非公式な交渉が女性達によって始められた。どんなことになるのか・・・恐ろしかった」と、BICWF議長のモニカ・サム(Monica Samu)は回顧している。 

(iⅱ)公式のメディエーションは各村の首長(チーフ)に、武装組織との話し合いの許可を得る交渉から始まった。サムによれば、首長たちは、覚悟を決めた「女性たちの安全を保障するために、了承せざるを得なかった。」という。さらに独立派の武装組織と接触し、話し合いを始める許可を得るための努力が行われた。サムによれば、「(BRAの)基地ではなく途中で会うように言われた。皆、銃を私たちに向けていた。私たちの村の若者もいた。中には攻撃的な兵士もいたが、私たちは彼らに武器を捨てて家に帰るよう呼びかけた。簡単ではなかった。PNGDFが怖いからこんなことをするんだろう、と私たちを疑う兵士もいた。ジャングルの奥深くに入ったのはその時が初めてだった。2度目は教会や地方政府関係者、女性リーダーたちの一団が会いに行った。何度も定期的に話しに行った。」

 

(iv)同時に、パプアニューギニア政府側のPNGDFから話し合いの許可を得る活動も進められた。ブーゲンビル島南部の女性活動家へレン・イキライによれば、「まずパプアニューギニア政府側の平和運動グループの中から女性の会を立ち上げ、毎日曜日、礼拝の後話し合って計画を練った。PNGDFが最初にブーゲンビルに上陸した時、私たちは機を逃さず彼らのところへ行き、ブーゲンビルの平和のためにやってきたというのなら、私たちの話し合いの計画を受け入れてちょうだい、と話した。」

 

(ⅴ)さらに、土地所有者でもある女性の中には、母系社会での伝統的な地位を利用して、各地域レベルでの長老会議(Council of Elders)の結成を促したり、村レベルで土地所有者会議の開催を求めたりして、地域レベルでのBRAと伝統的支配者層との話し合いに成功するものも現れてきた。

 

(ⅵ)BRAが支配する地域では、BRA暫定政権が造られたが、そこでも、女性たちは、女性のネットワーク型の平和組織であるBWPF(Bougainville Women for Peace and Freedom:平和と自由を求める女性たち)を立ち上げて、ジャングルの支配地域のなかで、平和の祈りや、難民になった家族や夫を失った女性などの救援活動を行った。このような女性たちの活動によって、停戦と和解への願いが広がり、NRAのリーダーたちも、「次の世代を担うものが武力紛争の中で育ってはいけない、戦いを続けてはいけない」と気づくようになった。

 

(ⅶ)ブーゲンビルだけでなく、19973月にはパプアニューギニアの首都ポートモレスビーのBICWFのメンバーたちは、パプアニューギニア政府に対して、「将来を見据えた政治的解決のためにブーゲンビルの人々と対話するべきであり、力ずくで解決すべきでない」と働きかける請願運動を行った。 1998年、女性たちの地域レベルでの活動の成果として、BRAとパプアニューギニア政府との和平会議が行われ、いちおう紛争が終結した。ただし、その会議に女性たちの代表の参加は許されなかった。

 

 10年間続いた内戦状態のいちおうの終結までの経緯における女性団体の活動は以上のようなものであった。そこには、紛争解決の仲介という視点からみて、実に興味深い論点が多くあるが、ロールズ氏の報告は、そこで終わらない。この点は、今回のフィジーでのメディエーションの議論が、単なる紛争解決あるいは管理の手法を論じるといった実践技術的な問題に終始するのではなく、むしろ、暴力的な紛争の防止、さらには暴力的紛争の根絶をめざすような議論の方向性をも含むことを示すものとして重要である。

 

「戦争が終わっても、全てが解決したわけではありません。私たちの周囲には、まだまだ暴力行為と呼べるようなことがたくさんあります。私たちは家庭、部族、コミュニティ、難民となった仲間の人々を結ぶ掛け橋を築き、たとえ見知らぬ人がいてもお互いに協力しあい、地域を良くしていこうとしています。それが、平和の持続につながると確信しています。私たち女性は、生活の向上に向けて平和な環境作りを目指す重要な責任を負っています。今後のブーゲンビルの平和を考えるなら、女性の公式な場への参加は不可欠です。」  フロアからモミス氏(大会記念講演者で、政府の要職にあってブーゲンビルの紛争解決に努力した男性)が発言を求め、争いごとが起きた時は、女性でも子供でも、とにかく全ての関係者が同席して話し合う必要があることを、改めて強調した。

 

 メディエーションの経験が、メディエーターとなった人々自身の意識を変えていき、暴力的な紛争の根絶に向けた社会的な条件づくりに人々を動員していく、といったサイクル、いわばメディエーションを軸とする社会変革の展望を、彼女たちの経験から導き出すことができそうである。

  (*1)いわゆるブーゲンビル紛争は、1988年にオーストラリア資本の銅鉱山会社による環境破壊に対してブーゲンビル島民が抗議行動を起し、それが独立運動に発展したことから始まった。1990年に「ブーゲンビル共和国」を宣言した独立派のBRA(Bougainville Revolutionary Armyブーゲンビル革命軍)と、独立に反対するパプアニューギニア政府のPNGDF(パプアニューギニア防衛軍)および後にPNGDFが島民を組織した「レジスタンス軍」との間で10年間にわたって内戦状態となった。10年間で18万人の島民のうち2万人が死亡、約半数が家を失うという被害を出した。1998年にオーストラリア、ニュージーランド、太平洋諸国政府、国連の仲介で停戦合意、2001年両者は和平文書に調印、国際和平監視団のもとで、政府軍の撤退や武装解除など自治権拡大への手続きが開始され、 2005年には、選挙により大統領を選出し、自治政府が発足した。201015年くらいまでに、分離独立に関する住民投票が行われることになっている。 
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